うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…
というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNHCの人の目線で語ってみようというものである。今回のテーマを明かすにはやや長い前置きが必要となるが、待望のシリーズ四作目にしていつもと異なる演出するのも飽きが来なくて良いと思うこの頃である。
さて、「イエスが人々の罪を贖われて救いの道を開かれた」という言葉はキリスト教の中ではよく聞かれるし、教会に通っていなくてもイエスについて知っていることは何かと問われたら正確な意味を知らずともこのように答えることと思う。しかし、この「罪」というものについては、教会で学んでいない者にとっては何を指すものなのか不明なことだろう(いや、ひょっとすると教会で聞いてはいても実際は漠然としたものとして捉えている者も多いのかもしれない)。
それから、「罪」とセットでよく聞かれるものには「裁き」というものがあり、時には「地獄」という言葉も共に使われることがある。これらはいずれも「死」に結びつくものであるゆえに恐怖を感じさせる言葉であり、それゆえ理解のないままに自らにその言葉を向けられると不安にもなり、不愉快にもなる。そこで人々は言う、
「私は今まで犯罪を犯した覚えはないんだけど、何の罪があるって言うの?」
聖書には「義人」という言葉がよく出てくるが、その対義語として「不義人」という言葉はなく、あるのは「罪人」と「悪人」である。つまりは「罪人」というのは「義人ではない者」、すなわち「義がない者」と言えるだろう。ここで重要なのは、これらの言葉はいずれも神の前でどうかという文脈で用いられるのであって、神と離れた世界において義があるとか、ないとかという話ではないということである。すなわち「義人」とは「神の前に義がある者」を指すのであり、これをさらに分かり易く言い換えるならば、「神が願われることを行っている者」と言えるだろう。
それでは、神の願いが何であるかをどうやって知ることができるだろうか。そこにキリストが来られた意義がある。すなわち、「人の子が現れたのは悪魔のわざを滅ぼすため」とあるように、キリストは神の願いとは何であり、罪とは何であるかを教えるために来られたのである。
イエスの教えを受けて自らが罪人であることを言い表した人物の一人にペテロがいる。ペテロは元は漁師であったが、ある日群衆を連れて現れられたイエスの願いに応えて彼を舟に乗せて沖へ漕ぎ出し、イエスが浜辺の人々に福音を伝えられるのを聞くこととなった。説教の後、イエスがペテロが前日の夜から不漁だったことを見抜かれてペテロに沖へ出て右の方に網を降ろすように言われたが、ペテロは自らの漁師たることを思いながらもイエスの説教の権威を見たゆえ半信半疑で指示に従ってみたところ、果たして多くの魚が網にかかったのであった。そこでペテロはイエスの証する神を認め、イエスに自らが罪人であると告白してイエスに同行することを決めたのである。このように、人がキリストの伝える福音を聞き、体験し、やがて神という存在を認めたうえで自ら「己は神の前に義があるか」と自身に問うたとき、自ずから罪を自覚するに至るのである。
このように言うと、「罪は依然として存在しており、冒頭で挙げた『イエスが罪を贖われて救いの道を開かれた』という言葉に反しているのではないか」と考える人もいるであろう。しかしイエスが贖われた罪というのは、その時代にイエスをキリストとして信じることなくむしろ迫害し、遂には死に追いやった、その時代に渦巻いていた不信仰の罪であり、イエスは彼に対して広まり続けるあらぬ歪曲された噂に動揺して一人も彼を神の人として受け入れて証する人がいなくなり、後の歴史も途絶えることを狙った悪魔の策略を打ち破るために、ご自身がそれ以上差し出せるもののない贖いの条件として自らの肉体を十字架に引き渡されたのである。これにより悪魔がつかんでいた罪がなくなって彼らが退くと同時に、その時から起こったさまざまなしるしによってイエスをキリストと認める者たちが多く現れて新約歴史が興ったのである。
話の流れを戻すと、今述べたような信仰の土台の上で、NHCに通う人々もヤコブの言う「人がなすべき善を知りながらそれを行わなければ、それは彼にとって罪である」という類の罪はある。ソロモンが「罪を犯さない人はいない」と言ったように、パウロが「私は心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」と告白したように、皆生活の中で何かしら神の御言葉に照らしてずれる部分も出てくるのである。
このように言うとまたある人は言うであろう、「結局罪は消えることがないのか」と。しかし、これは絶望的な話ではない。このように人は常に罪を犯し得ることをご存知で、イエスはこのようにペテロに言われたのである、「(もし兄弟が罪を犯して悔い改めるなら、赦すことを)七度までとは言わない。七の七十倍までにしなさい」。そしてまたこのように言われた、「私が来たのはこの世を裁くためではなく、救うためである」。それだからキリスト教福音宣教会の創設者である鄭明析も「生活をしていたら垢が出るように罪は犯すものであるから、日々悔い改めなさい」と言うように、NHCの人々は日々自らを点検して悔い改めながらより勝った救いを得ようと努めているのである。
こうしてキリスト教における「罪」とは何か、NHCの人々とその罪の関係について見てきたが、読者がこれを読んで、自らに罪があると認めるに至るほど神を認めさせる福音とはいかなるものなのかについて興味を持っていただけたなら幸いである。