うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…
というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNHCの人の目線で語ってみようというものである。思い付きで始まったこのシリーズも遂に第三弾となる本記事によってシリーズとしての位置づけを確かなものとすることができた。
今回はやはり宗教と言えば誰しも第一声か第二声かあるいはその次くらいに口にするこの問いかけを扱ってみようと思う。
「宗教に入ってるらしいよ。のめり込んでるんじゃないか?」
ここNHCには個性豊かな人々が多く通っており、下は乳幼児から始まり、勉強やスポーツに勤しむ学生、働き盛りの大人、はたまた上は「長寿」と言われる世代まで幅広い年齢層の人々が存在する。福音に出会って日はまだ浅いが、いわゆる主への「初恋」というもので熱心に信じる者もおれば、日が浅いゆえにまだ明確には霊の世界を信じられていない者もいる。逆に信仰の年輪が多く深みまで悟って主に従う者もおれば、いまだ深くはキリストを悟れていないが経験が積もって福音を否定することはできないという者もいる。その意味で、
「皆が『のめり込んでいる』わけではない、人それぞれ信仰の段階がある」
と言って終わってもよいのであるが、そもそも「のめり込んでいる」というややもすれば否定的にも捉えられる表現をされる背景には何があるだろうか。
およそ宗教というものには信仰が伴い、その信仰の形は宗教によって多種多様であるが、共通するのは文字通り「何かを信じること」である。何かを信じるゆえにその何かが生活における価値観に影響を与え、その価値観が判断に影響を与え、したがって物事に対する反応や選択する行動に変化が生じるのである。そしてこの変化を他者が見るときに良かれ悪かれ違和感を覚えるのであり、「信じるものが彼に大きな影響をもたらしているのだ」、すなわち「彼はのめり込んでいるのだ」と結論づけるのではないだろうか。
しかし何かを信じることによる変化というのは宗教に限ったことではない。社会的な運動、あるいは社会的なものであれ私的なものであれ何かしらの事業を自らの生き甲斐と位置付ける者もおり、周囲の人間からすれば時間も金も青春も全てを捧げる姿はやはり「のめり込んでいる」者のようであろう。その異様な姿に対して人はやはり良くも悪くも反応を示すものであるが、宗教に接するほどの怪訝な態度はあまり取られないどころか、彼らの著作は一般的にも好んで読まれることがある。
ではそうした事業活動や社会運動と宗教の違いは何かと言えば、宗教とは文字通り「根本を教える」もの、すなわち人間はなぜ生きるのかという目的について答えを与えるものであるという点であり、特に目に見える肉体の世界の裏にある目に見えない世界にこそ人間の根本があるとするものが多い。それゆえ(この国においては)より日常において文字通り「見慣れない」もの、転じて「不確かなもの」、「怪しいもの」へと人々の認識が形成されやすいものと考えられる。ちなみに聖書においてはパウロが神と人との関係を陶器師と器の関係に譬えている箇所があり、その譬えの延長として、器を用いる存在への意識を欠いていては器自らがその存在意義を知ることはできないように、人もまた神という存在なくしては自らが存在する目的を見出すことはできないのだと言うこともできる。
さて、宗教に対する外からの認識について考えてみたところで、聖書においては信仰についてどのように述べられているかといえば、へブル人への手紙の中でパウロが「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認することである」と語っている。すなわち信仰とはただ信じることのみを指すのではなく、信仰をもって行うことによってそれが確かであることを確認することまでが含まれているのである。この点はNHCが属するキリスト教福音宣教会の創設者である鄭明析もまた「盲目に信じるのではなく確認しなさい」と教えるとおりである。
そしてキリスト・イエスは信仰についてこう言われた、「あなたがたの言葉はただ『しかり、しかり、否、否』であるべきである」。そしてまた言われた、「あなたがたは熱いか冷たいかであってほしい」。これは鄭明析が言うように、「人も信じてくれてこそ、うれしくやってあげたい気持ちにもなるのではないか。神もまた同様である」ということであって、事実イエスは「(ご自身の故郷では)彼らの不信仰のゆえに力あるわざをあまりなさらなかった」(マタイによる福音書)あるいは「行うことができなかった」(マルコによる福音書)と記録されている。すなわち確かに神は目には見えない霊の存在であるが、神を、またキリストを半信半疑ではなく分かってはっきりと信じるときに、それによって神が一層大きな御業をもってご自身を現わされるということである。
以上のようなわけでNHCでは信仰が熱心であることが望ましいこととされているのであるが、一つ最後に付け加えるとするならば、パウロはエペソ人への手紙の中でイエスを十字架に追いやり、その弟子たちのことも迫害したユダヤ人について「彼らが熱心であることは証するが、その熱心は深い知識によるものではない」と述べており、また「私の言葉も私の宣教も巧みな知恵の言葉によるのではなく霊と力の証明によったのである」と述べている。またイエスの使命について明確に答えられず戸惑う弟子たちの前でペテロが一人「あなたこそ生ける神の子、キリストです」とイエスに告げた時にもイエスは「あなたにこれを悟らせたのは血肉ではなく天におられる父である」と言われた。これはつまり神に喜ばれる真の熱心な信仰というものは自らの思い込みや熱狂によるものではなく、確かな福音と聖霊の働きかけによって悟りと共にもたらされるものであるということである。
さて、今回も思ったより長くつづることになってしまったが、率直な思いとしては次があるかどうかはまだ分からない。これまでのシリーズでNHCと世間一般で持たれる宗教に対する認識との関係性は明らかにしてきた。こうした話をきっかけとして読者がNHCで教えられている福音について少しでも聞いてみたいという心が生じたならこれ以上何の言葉も要らないのである。